ドラムを叩く、ナガサキ

私がドラムを叩き始めたのは、高校2年生の春のことだった。

 

当時の私は現在も一緒にバンド活動をしている同級生のホイミこと保井実(やすいみのり)と2人組弾き語りユニットを組んでいたのだが、やっぱバンド体制の方がやりやすいよね、となってキーボードのフジタを加え、私がドラムを担当することになった。そしてこれが、私のドラマーとしての経歴の始まりだった。

 

だが最初はドラムの勝手など何も分からず、地元の近所の「牛舎8号」という観光牧場の片隅に、半ば粗大ゴミのように放置されていたボロボロのドラムセットを、責任者の方に頼み込んで使わせてもらっていた。

 

山奥の牧場の片隅でひとり、私はエイトビートが叩けるようになった喜びや、スティックが手に馴染んでいく感覚を噛み締めていた。私の初めてのオーディエンスは人間ではなく、牛や馬だったのだ。

そしてその馬の中の1匹が、今も「ウマ娘」で話題を呼んでいる「ハルウララ」だったということは当時の私は知る由もない。

 

そして高校2年生の秋、バンドメンバー3人で入った千葉のスタジオで、「師匠」に出会った。

 

現在は「む○○○む」(一応名前は伏せておく)という名前でドラマー活動をしているが、当時の師匠はドラムスクールで講師をしながら、我々の通う小さなスタジオで働くアルバイトだった。

しばらく通っているうちにいつの間にかホイミと師匠が仲良くなり、そしてその流れで、頼んでもいないのに私にドラムのいろはを勝手に教えてくるようになった。

「師匠と呼べ」・とか、「次来るまでにこれをできるようになってこい」とか、非常に図々しい人だったが、人当たりとドラムの腕前はやたらといい為、大人しく師匠と呼ぶことにした。

 

そして何度かのライブを乗り越え、ようやく私は師匠に「ドラマー」と名乗ることを許されたのだった。わざわざスタジオで「半人前」の戴冠式まで行ったのを覚えている。高校2年生も終わり、3年生になろうかという時期だった。

 

そして私が受験期に入りスタジオに入ることは少なくなったが、師匠との交流は続いていた。やはり一応年上なので、受験の悩みを千葉駅のスタバで何度も吐露し、そして師匠は彼氏ができない悩みを年下の私とホイミに吐露していた。

 

そしてそれから3年以上が経過した2022年現在、無事大学に合格した私のドラム歴も4年となり、師匠は結婚して娘をもうけた。おめでたい。

 

このコロナ禍でライブこそ出来ないものの、コロナ終息後のライブ再開に向けて、休止していたバンド活動を少しづつ再開し始めた次第だ。

 

バンドメンバーのホイミ、フジタ、そして師匠は私の親友といっても差し支えないかもしれない。

 

まあ、そんな感じです。